2025
06.08

長嶋茂雄の僕たちの知らない年表

国内スポーツ

長嶋茂雄さんの「私たちの知らない年表」を、以下の通りまとめました。国民的スターとしての輝かしい功績の裏にあった、人間味あふれるエピソードや知られざる一面に焦点を当てています。

  • 幼少期(時期不明): ご両親から、将来天皇陛下が試合をご覧になるような有名野球選手になったとしても、目を合わせてはいけないと教えられていました。これは、天皇への敬意を示すための教えだったと考えられます。
  • 現役時代(時期不明):
    • 特に来日外国人選手のような「華やかな走り方」をしていたとされています。
    • 本人は「日本では窮屈さを感じていた」と語る時期があったようです。
    • 親交のあった石原裕次郎さんとは、昭和の芸能界とプロ野球界で輝きを放ったスーパースター同士として、青春時代に深く交流していました。裕次郎さんは1987年4月に入院中、意識が朦朧としながらも突然「1階にシゲが来ている。迎えにいってくれ」と長嶋さんの名を口にしたと、裕次郎さんの妻まき子さんが語っています。まき子さんは「最後まで裕ちゃんの中に、茂雄ちゃんがいたんです。それだけ素晴らしい青春時代を一緒に送ったんだと思います」と、その絆の深さを証言しています。
    • 現役時代の足の怪我は、同期入団のライバルである難波さんと高輪プリンスのプールで水泳勝負をした際に肉離れを起こしたことが原因だったと、難波さんが回想しています。このことは球団には報告していなかったそうです。
    • スキー場でのグラビア撮影の際、列車が清水トンネルを抜けて一面の雪景色になった時、彼は「オレにスキーやらしたら違うぜ」と言いながらも、「こんな雪見たの初めてだよ」と面食らっていたそうです。
    • 監督からサインを見ないことを注意された際、コーチの目をまっすぐ見て真顔で**「僕は、巨人軍の4番打者だよ。サインなんて、“打て”以外に、あるわけないじゃない」という名言を残しました。これは、巨人の4番打者である以上、打つのが仕事であり、サインは不要であるというプロとしての矜持**を示しています。
    • 本人は打席で自己暗示をかけることを武器としていたと語っています。自己暗示によって、次に投手が何を投げてくるか分かったかのように感じていたとのことです。
    • 敬遠されることが多かった際、ファンが打つところを見に来ているのに応えるため、バットを持たずに打席に立ったことがあります。そして、フォアボールとなった後には「4球目はちょっと高めに来て打てたな」と残念がっていたそうです。
    • ファンを楽しませるための「サービス精神」が非常に強く、わざと面白いことを言ったり、メディアに注目されるよう意識的に横文字を使ったりしたこともありました。監督時代も、テレビカメラが自分を狙っている時は身を乗り出すなど、常に見られていることを意識していたようです。
    • プライベートでもユーモアのセンスがあり、結婚式で熱を出して乾杯の挨拶を断った際、後日熱がどのくらい出たかと聞かれ「3割8分8厘ですか」と野球の打率に例えて答えた逸話があります。
  • 監督時代(時期不明):
    • 円陣を組んだ際に「いいかオマエたち、絶対にあきらめるな! 人生はGive up だ!」と、天然な発言で周囲を和ませる一面がありました。
    • 風邪をひいている記者を見つけると「インフレ流行ってるから、気を付けないとね!」と声をかけるなど、独自の表現で心配していました。
    • 教え子の松井秀喜選手には「4番1000日計画」という育成プランを立て、マンツーマンで指導にあたりました。特に素振りの「音」を重視し、「ヒュッ」という空気の切り裂くような短い音が良いと教えていました。松井選手との練習中には、「よーし、1分休憩」と言っておきながら10秒も経たないうちに「よーし、いってみよう!」と指示を出すなど、天然なエピソードも残されています。
  • 1993年~1996年: 監督として息子・一茂さんが巨人で選手としてプレーしていた時期、長嶋さんは自宅だけでなく球場の食堂でも、バナナを半分だけ食べて残すという独特の食生活を送っていました。食べ残されたバナナは10本ほどテーブルに並び、周囲は監督に直接注意できず、代わりに息子の一茂さんがチームメイトやコーチから「お前の家はどうなっているんだ」と怒られていたそうです。
  • 2004年: アテネ五輪日本代表監督を務めていた際に脳梗塞を発症しました。
  • 2017年: 病で倒れ右半身が不随になった後も、リハビリを続け、左手で「勝つ」の文字と自身の名前を書きました。スポーツマンとしての美学として、病後も体型を維持するためのリハビリに励み、胴上げされる際の「Vの字」を意識していたとも言われています。
  • 2022年: 脳出血で入院しました。
  • 晩年(2023年頃): 総額20億円規模の**「終活」と「新財団」の設立**を進めていたと報じられています。この時期には、長男・一茂さんと次女・三奈さんの間で家族間の対立があったとされています。一茂さんは相続放棄を公言し、亡き母が眠るハワイの墓に入りたいと語っていました。
  • 2025年3月: ロサンゼルス・ドジャースと巨人軍の試合が東京ドームで行われた際、球場に姿を見せ、大谷翔平選手らを激励しました。
  • 2025年6月3日: 肺炎のため89歳で逝去されました。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。